• 2018/6/9
  • 平成30年度 第1回 佐野学市民講座

 6月9日(土)、平成30年度佐野学市民講座「知られざる佐野ゆかりの偉人」の第1回講座が、佐野日本大学短期大学大講義室で行われました。

 昨年同様、200名を超える市民の方々が参加してくださいました。

【会場の様子】

 第1回の講師は、本学特任准教授の田村田氏。講演タイトルは「孫から見た人間国宝・田村耕一の素顔」です。

 講師の田村田氏は、陶芸家で独特の鉄絵技法によって人間国宝に認定された田村耕一(1918-1987)の孫にあたり、おじい様の陶芸のよき理解者として、佐野市人間国宝田村耕一陶芸館の運営委員をなさっています。田村氏のお話は、大きく前半と後半に分かれます。前半は偉大な陶芸家としての田村耕一の人生と作品の紹介。後半は、講師自身を含む家族と祖父田村耕一との関り、つまり家庭人としての田村耕一の人となりの紹介です。

【講義中の田村田氏】

 講演は、田村耕一が陶芸の道を志すにいたるまでの経緯の説明から始まりました。父親は節句人形製造卸業を営む田村林次(人形師:三代愛林斎観月)で、耕一はその二男。二男であるのに「耕一」と名付けられたのは「田村耕二」という名前の人が既に近所におり、同姓同名になるのを避けたらしい、とのこと。10歳の頃、近く住む9歳年長の三井安蘇夫(のち鍛金家)の東京美術学校受験勉強の様子を毎日のように見に行き、強い影響を受けた。やがて自身も東京美術学校(現東京藝術大学)に入学するが、人形師である父林次の意向により学部は工芸科図案部を選択。このとき耕一自身は画家志望だったそうです。

 やきものに興味を持つようになったのは学生時代。耕一は食生活に凝る性格だったらしく、一人暮らしで使う食器(当初は絵具皿に兼用できる白い西洋皿を使っていた)に物足りなさを感じて、古道具屋へ出入りするようになる。そこで伊万里焼や朝鮮李朝の陶磁器に出会ったことで、「陶芸との幸せな関係が始まったのかもしれない」とのこと。21歳の時、益子の濱田庄司(当時45歳)を訪ね、飯茶碗を買い求めようとしたところ、「学生からお金は取れない」と言われ、蓋つきの茶碗4個を無料で譲ってもらったこともあったそうです(何たる幸せ!)。

 大きな転機が訪れたのは終戦後。輸出食器をデザインする京都の松風研究所から誘いをうけ、顧問の富本憲吉氏の指導を受けつつ轆轤(ろくろ)や窯焚きを手伝うなか、次第にやきものが耕一の生活の中心を占めるようになっていった。昭和23年、30歳で佐野に戻って赤見焼の創業に参画。翌昭和24年、自宅裏庭に初めて薪釜(倒焔式)を築くと、器形、文様、釉薬の選択、描法などすべての面で実験的な作風の作品を次々と創っていったそうです。昭和28年に新たな仕事場を構え、本格的な登り窯を築いたときは、資金作りに大変苦労したとのこと。元佐野町長の山田元吉氏をはじめ、このときに支援してくれた人達に、耕一は終生深く感謝していたそうです。

 昭和31(1956)年、第5回日本陶芸展に芒図楕円大皿を出品し、朝日新聞社賞、松坂屋賞を受賞して鮮烈なデビューを飾った耕一は、その後も常に工夫と実験を重ね、作風を変化させていきます。デビュー当時、1950年代後半(昭和30年年代前半)は、①黄土色系の器体に草文の絵付や、②焦げ茶色など濃色の器体に図式化された鳥や魚などの「刻文」を施すものが多かったそうです。1960年代は基本的にその延長上にあって、器形が優美になると同時に、意匠は洗練されていきますが、1970年代になると、③白泥白釉の器に様々な絵付を試みたり、④青磁への彩色絵付を試みるなど、それまでとまったく違った新しい作風が現れる。この大胆な作風の変化に、孫の誕生が何がしか(むしろ決定的な?)影響を及ぼしていたのではないか、と田村氏はコメントしていました。1980年代に入ると、釉薬の工夫と銅彩絵付の応用がさらに進み、昭和61(1986)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。

【仕事場の2階で】

 このような陶芸家としての田村耕一の歩みとその作品を紹介しつつ、講演では様々なエピソードが紹介されました。東京芸大教授として学生には常に厳しく接していたが、孫の話を持ち出せばすぐ別人のように朗らかになったこと。支援者の一人である松本勝蔵氏(永楽屋)と耕一が、百科事典販売促進の報奨金制度(100セット販促でフランス旅行プレゼント)を利用して、一緒にフランスへ行った話。耕一は上向きの花より下向きの花を好み、作品のモチーフにも、ほたるぶくろ、カタクリ、クリスマスローズなど、歩いている人に見過ごされてしまいそうな花を好んで用いたが、それらの花はいまも自宅の庭に咲いていること、等々。

 「じいちゃんとの思い出」と題する講演の後半では、小学校1年生から4年生まで、毎年夏休みに祖父母と田村田氏の3人で北海道へ約10日間の旅行にいったこと、その旅行中でのハプニングやドライブのときのちょっと危ない(?)エピソードなどを始めとして、家族思いの田村耕一と孫である田村田氏の関りを中心に、世にあまり知られていない家庭人田村耕一の素顔が、数々の写真と共に紹介されました。(これらのエピソードは、田村耕一生誕100周年を祝う今年の行事の中でも改めて紹介される予定とのことなので、本報告への詳細な記載は控えます。)

 最後に田村氏はおじい様を敬愛する理由に触れ、「長期間を費やして一つの作風を確立し、高い評価を受けてもそこに安住せず、あっさりそれを捨てて、あたらしい課題を見つけ、また一から挑戦したこと、そのような姿勢こそ田村耕一の最も偉大なところと思う」と述べられました。また、そのような田村耕一を支えた多くの人達のなかで、いわば「糟糠の妻」として最も貧しいときに自分の収入で耕一の生活と挑戦を支え続けたおばあ様のことにも触れ、「物を売る心配なく作陶に集中できたことは祖父にとって有難かったはずで、祖母の存在が大きかったと思う」と指摘して、講演を結ばれました。

【松本勝蔵氏とフランスで】

【鉄絵銅彩ほたるぶくろ文大壺 1985年】

講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかを紹介します。

 ※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

 

 ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。

前のページに戻る