• 2017/7/15
  • 第4回 佐野学市民講座

 7月15日(土)、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の第4回講座が、本学大講義室にて行われました。

 第1回〜第3回と同様、200名を超える市民の方々がお越しくださいました。今回はいつもより出足がやや遅く、12時40分頃から来場者が急に増えはじめました。

【受付の様子】

【講義中の大講義室の様子】

 第4回の講師は、医療法人慈恵会、秋山耳鼻咽喉科理事長の秋山欣治(きんじ)先生。講演タイトルは「佐野の医療の歴史と秋山家」です。

 秋山先生のお話は、前半と後半に分かれます。前半のテーマは唐澤山神社創建の歴史と秋山家のかかわり、後半は佐野の医療の歴史と秋山家のかかわりです。

 最初に秋山家の系図についての説明がありました。確実なことは分からないけれども、秋山家はもともと四国丸亀藩(京極家)の出で、江戸時代の中頃に佐野に移住したと推測される、とのこと。「秋山織江」「秋山林太夫」の名前が佐野家関連の史料に確認されますが、江戸末期に佐野家の家老をつとめた「秋山林策」が特に重要で、彼は「野相出役手控」と題する一種の業務日記を、元治2(1864)年から明治36(1903)年まで記録し続けました。「野」は上野並びに下野、「相」は相模をそれぞれ意味し、林策は奉行として、それらの地域に散在する佐野家(旗本)の知行所の管理をしていたそうです。

【講演中の秋山欣治先生】

 江戸幕府が倒れ、明治時代になると、士分の者は地位を失い、なかには路頭に迷う者も出てきます。秋山林策はこのとき江戸にいた佐野家の一族郎党を連れて佐野の富田屋敷(佐野陣屋)に帰りましたが、その頃佐野家主従は苦しい生活を余儀なくされたようで、林策自ら寺子屋を営むなどして何とか生計を立てていた、と言います。その後、林策の寺子屋は足利郡駒場小学校(現在の富田小学校)となり、林策自身もこの小学校に勤務するようになります。

 明治10(1877)年、佐野家存続を目的とする「澤英会」が結成されます。さらに明治13年(1880)年には唐沢山城址に藤原秀郷を祀る神社を設立することを目的として「東明会」が結成され、佐野、田沼、葛生の有力者が参集します。秋山林策はその中心人物の一人として活動し、時の明治政府の大蔵卿であった佐野常民-佐賀藩出身で下野佐野氏と直接の関係はない-を東明会総裁に迎えることに成功します。(このとき来訪した佐野常民が島田嘉内邸に逗留した話が、第1回講座に出てきました。)唐澤山神社は 明治16(1833)年に創建、明治23年には別格官幣社に列せられ、佐野家当主(佐野郷)が宮司に、秋山林策が禰宜に、それぞれ任命されます。この頃には皇族の登拝が続き、明治26(1893)年には皇太子(後の大正天皇)が南城館に宿泊して唐澤山神社に参拝、併せて松茸狩りを楽しんだ、とのことです。

 秋山金也は林策が佐野家の船奉行として大阪にいたときに出会い、連れ帰った養子ですが、秋山先生によると、これからの社会のためには医学がとても大切であると考えた林策は、足利藩の藩医であり、蘭学者(洋医学者)としても知られていた早川俊堂に金也を弟子入りさせ、勉強に励ませたそうです。やがて金也は東京大学別課医学科に入り、明治18年に卒業します(秋山先生によると同学科の第一期卒業生)。同じ年に今日の医師国家試験に当たる医術開業試験に合格し、医籍登録番号128番(秋山先生によると栃木県では最初の例)を得て、明治22(1889)年に佐野で仁生堂を開業します。明治24年には安蘇病院の三代目院長に就任、明治42(1909)年には安蘇郡医師会会長(初代)、翌明治43年には栃木県医師会会長(初代?)に選出され、地域医療の発展に尽くしました。講義のスライドでは、安蘇病院に関する写真のほか、秋山金也の東京大学別課医学科卒業証書、金也が使った往診カバン、後に衆議院議員となった金也が、大学時代の同級生であり、政友会の同志でもあった後藤新平から贈られた「杏林爾有春」の書なども紹介されました。

【後藤新平が秋山金也に贈った自筆の書。落款に「為秋山国手新平」とある。
現在は秋山耳鼻咽喉科の院長室に飾られている。】

 秋山家はその後も代々、佐野の医療の歴史に深く関わり続けます。安蘇病院は、金也の長男、秋山元が昭和2(1927)年に2代目院長になります。元が早逝すると、金也4男の秋山秀が元の順養子となって跡を継ぎ、昭和12(1937)年に3代目院長に就任しました。この秀が、秋山先生の実父に当たります。秋山秀は軍医として戦地に招集され、また戦後も抑留を受けて、安蘇病院では長く休診が続いたそうです。また、秀が抑留を解かれて帰国し、佐野駅に降りたときは、大勢の出迎えの人で沿道が埋め尽くされたそうです。

 他方、秋山元が安蘇病院院長を継いだのと同じ昭和2年には両毛脳病院(今日の両毛病院)が開設されますが、こちらは金也の次男、秋山學が初代院長になりました。時代は下って昭和34年、両毛病院院長秋山學は、唐澤山神社宮司の佐野五郎(本講座開講式でご挨拶くださった佐野正行氏の実父)と協力し、障害のある子どもを支援する施設「とちのみ学園」を設立します。秋山先生によると、当時の日本にはまだ障害者支援施設は多くなく、時代の先を行く事業だったとのことです。

 佐野の医療史に関する秋山先生のお話は、医師会や医師会病院に関する話題ほか、安蘇郡産婆看護婦学校養成所設立(明治42年)、農業協同組合佐野病院開設(昭和12年)から佐野厚生総合病院への改組(昭和25年)等にも及びました。昭和26(1951)年に両毛線でバス列車衝突事故があったときは、周辺病院だけでは負傷者を収容しきれず、40名を医師会館に収容して救護活動にあたったそうです。また昭和36(1961)年には当時の国の政策に合わせて附属佐野医師会病院が設立されましたが、その後時代が変わって多くの医師会病院が閉鎖され、消えていくなかで、栃木県では唯一佐野医師会病院だけが残っているそうです。最後は佐野市民病院の経営に関する問題状況に加えて、地域医療全体の課題として特に在宅看護・在宅介護への市民の協力が必要である旨をお話になって、講演を結ばれました。

 

講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかを紹介します。

※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

 

 ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。

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