• 2017/7/1
  • 第3回 佐野学市民講座

 7月1日(土)、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の第3回講座が、本学大講義室にて行われました。

 生憎の雨天にもかかわらず、200名を大きく超える市民の方々がお越しくださいました。また、この日は朝から本学においてオープンキャンパスが行われており、大講義室の入り口付近は一時高校生からご高齢の方まで大勢の方々で混雑気味に。誘導スタッフも大忙しでした。

【大講義室が狭く感じられるほどの盛況ぶり】

 第3回の講師は、「佐野厄除け大師」でお馴染みの、春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかさん・てんぽうりんいん・そうしゅかんじ)の第40世住職、旭岡靖人(せいじん)様。講演タイトルは「佐野厄除け大師の歴史」です。

 惣宗寺は天慶3年(西暦940年)創建とも、天慶7年(同944年)創建とも伝わる古刹。毎年正月は、約50万人とも言われる大勢の参拝客で賑わい、全国ニュースでもしばしば取り上げられています。

【ユーモアを交えてお話しになる旭岡靖人様】

 旭岡様のお話は、かつて春日岡(現在の城山)にあった惣宗寺が今の寺域に移転された頃のことから始まりました。1600年の関ケ原の戦いの後、佐野氏は唐沢山城を廃して春日岡の地に移り、新たに「佐野城」を統治の拠点として整備します。このとき春日岡にあった惣宗寺をはじめ、近隣の多くの寺院が新しい城下町の周辺に移転されました。唐沢山城廃城の経緯については「江戸大火(慶長6年)展望」の有名な話が伝わっていますが、佐野氏の春日岡移転の動きはそれより早くに始まっているとのこと。いずれにしても、佐野氏が新しい拠点で統治を行ったのは約12年あまりの比較的短い時期に過ぎませんが、この頃に佐野氏によって築かれた東西方向の4本の道が現在も利用されているそうで、旧佐野町の区割りは佐野氏による町割りをほぼそのまま受け継いでいるそうです。

 佐野厄除け大師の正式名称は「春日岡山転法輪院惣宗官寺」ですが、旭岡様によると、この山号・寺号については次のような縁起が伝わっています。平安時代のこと、下野地方に勢力を有していた藤原秀郷は、春日大社の神霊を当時は「旭岡」と言われていた地に祀り、併せて宥尊上人(法相宗)を招いて寺院を建立した。「春日大社の神々を祀る丘」に建てられた寺ということで、山号は「春日岡山」と定められた。さらに藤原秀郷が平将門の乱を平定した後、朱雀天皇から「春日岡山惣宗官寺」の勅額を授けられ、勅願所に列せられた。ところが、惣宗寺は保元・平治の乱で戦火に巻き込まれ、一度は壊滅(焼亡)してしまう。鎌倉時代になって、俊海(天台宗の高僧)が9代執権北条貞時の助力を受けつつ惣宗寺の復興を果たすと、伏見天皇により「転法輪院」の勅号を下賜され、再び勅願所に列せられた。以上の経緯により、惣宗寺は発起藤原秀郷公、開基宥尊上人に加えて、俊海大和尚を開祖とするそうです。

 佐野の伝統工芸と言えば天明鋳物ですが、残念ながら、茶道関係の界隈を除いて、全国的にはそれほど名が知られていません。旭岡様は天明鋳物の歴史とその重要性についてお話しになり、江戸時代の天明鋳物の名作の1つである惣宗寺の銅鐘について説明されました。この鐘の取り付け箇所(※写真参照)には「蒲牢(ほろう)」という中国の架空の動物がつけられていますが、その精巧な作りは江戸天明期の鋳物師(いもじ)の技術水準の高さを表しているそうです。

【惣宗寺銅鐘の取り付け部分(竜頭)の蒲牢】

 惣宗寺は徳川幕府との縁が深く、江戸時代を通じて御朱印50石を拝領していたことが知られていますが、徳川家康公の遺骸(遺骨)が久能山から日光に遷葬された際、その道中で惣宗寺に一泊した話も有名です。1617(元和3)年3月28日のことで、旭岡様によると、当時下野小山藩を治めていた老中本田正純は、境内に御殿を準備して神柩を迎えたそうです。ただし、近隣には古刹名刹も多くあり、佐野惣宗寺が宿泊場所に選ばれた理由ははっきりしないとのこと。なお、日光東照宮の奥社には家康公の神柩を納めた唐銅製の宝塔がありますが(※写真参照)、これも天明鋳物の作品。また、江戸時代中期には歴代将軍の墓にも天明鋳物が使われたそうで、天明鋳物が当時如何に高い評価を受けていたかを示すものだと旭岡様は力説していらっしゃいました。

【日光東照宮奥社の宝塔(出典:「大好き!日光!」)】

 江戸時代には惣宗寺の境内が整備され、1658年(明暦4年)から銅鐘作成と鐘楼堂建立、山門建立、大師堂建立と続きます。また、1820年(文政3年)には惣宗寺第33世住職の義明権大僧都が境内に東照宮を造営することを幕府に出願し、1828年(文政11年)に落成。1832年(天保3年)には時の老中大久保加賀守がお供500人を連れて参拝に訪れたとのこと。この東照宮造営の経緯の記録や関連資料は第33世義明大僧都自身により、上下2巻の『東照宮由来記』にまとめられているそうです。

 江戸時代に例幣使街道が整備されると、佐野の街は「天明宿」という宿場町として発展します。例幣使とは、日光東照宮の春の大祭に朝廷からの幣帛(贈物)を奉納するための使者で、1647年(正保24年)から1867年(慶応3年)まで一度も中断せずに続いたそうです。

 明治維新後の惣宗寺で特筆されるのは、何といっても田中正造との関係です。旭岡様のお話では、1874年(明治7年)5月に小中村に帰ってきた田中正造は、1877年から3年あまりを惣宗寺で過ごしたとのこと。1880年8月、正造は安蘇郡結合社(忠節社)を組織しますが、そのときも惣宗寺を寝食の拠点にしていたのではないか、とのことです。その後、正造は政治家となり、栃木県会議員、県会議長を経て、1890年(明治23年)に衆議院議員になりますが、1901年(明治34年)には60歳で議員を辞職し、足尾鉱毒問題を天皇に直訴します。また晩年は渡良瀬川遊水地計画への抵抗運動を続けます。1913年(大正2年)に死去した正造の遺骨は5か所に分骨して埋葬されましたが、惣宗寺には頭蓋が納められ、そこで本葬が行われました。毎年9月4日に同志の人々が集まり、法要を営み続けているそうです。

【惣宗寺境内にある田中正造の墓】

 

講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかを紹介します。

※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

 

 ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。

前のページに戻る