• 2017/6/17
  • 第2回 佐野学市民講座

 第1回に続き、約200名の市民の方々がお越しくださいました。

(会場は再び満員御礼)

 市民講座と並行して、吉澤石灰工業の歴史に関するパネル展示が別室にて行われました。

(パネル展示にも多数の方々がお越しくださいました。)

【パネル一覧】①「吉澤石灰工業所写真」93cm×47cm:②「栃木県全図」(産業鉄道路線入り)100cm×78cm:③「吉澤兵左石灰工場」(銅版画)36.5cm×46.5cm:④「葛生古地図」(明治元年)100cm×78cm:⑤「吉澤石灰旧広告」120cm×120cm

 

 第2回の講師は、吉澤石灰工業株式会社代表取締役社長の吉澤慎太郎様。講演タイトルは「吉澤家の歴史と吉澤石灰工業」です。

 吉澤石灰工業は日本有数の石灰総合メーカーで、創業144年。佐野市によって「世界に誇る佐野ブランド企業」にも認定されています。

(講演中の吉澤慎太郎様)

 講演は、吉澤家のルーツの説明から始まりました。吉澤様のお宅の庭には、明治33年(1900年)に建てられた「吉澤氏家世碑」があり、そこに吉澤家の歴史が刻まれています。それによると、吉澤氏は上野国新田郡新田荘(現在の群馬県太田市付近)を治めていた新田義重から出たもので、その子孫は13世紀に新田郡今井村に移り、今井姓を名乗りましたが、今井氏5代惟道が上杉禅秀の乱(1416年)で討ち死にして以後、幕府の眼を逃れて上野国山田郡吉澤村に移り住みました。こうして吉澤村に居を構えた今井氏の9代当主惟良が吉澤姓に改め、さらに佐野氏に属して葛生に移り住んだといいます。吉澤家では、この吉澤玄蕃助惟良を初代と数えるそうです。

 吉澤家3代経昌は佐野宗綱四天王の一人に謳われたと伝わりますが、残念ながら佐野宗綱関連史料ではその事実を確認できなかったとのこと。4代経直の時代、佐野氏改易に伴い葛生の地で帰農すると、7代利兵衛茂長が酒造業を始め、財を成すと同時に名主になりました。文人墨客との交流で特筆されるのは、江戸時代末期、11代兵左衛門(松堂)のときに渡辺崋山が吉澤家で歓待を受け、お礼にと一幅の風竹画を描き残したこと。この崋山の絵は吉澤家の家宝で、「吉澤氏家世碑」の裏面にも刻まれているそうです。11代松堂と次の12代兵左衛門(象水)は、いずれも高久靄崖に師事して絵を学び、作品を残しました。少年期の田中正造が、吉澤松堂から絵を習った記録もあるそうです。

 講演後半のテーマは、吉澤石灰工業の歴史です。吉澤家が酒造業を辞めて石灰業に乗り出したのは1873年(明治6年)、13代兵左(慎堂)のときでした。当初、業界の「新参者」であった吉澤家は、事業を拡大するために様々な努力をしたそうですが、吉澤様のお話には3つ要点があったように思います。1つ目は、浅野セメント創始者の浅野總一郎や日本鋼管創始者の白石元次郎など、近代日本産業史上の重要人物との「出会い」を大切にして、事業の拡大に活かしてきたこと。もう1つは、戦後成長期にいち早く新しい技術(重油炊き焼成炉)を導入し、生産力の向上に努めたこと。そして3つ目は、技術力・生産力を背景に粘り強い商談を重ね、八幡製鐵(現新日鉄住金)・君津製鐵所への販路を獲得したことです。

 吉澤家歴代当主は、こうして家業を拡大させると同時に、幅広い社会貢献活動や、美術品収集を中心とする文化活動にも取り組んできました。13代兵左(慎堂)は佐野鉄道会社設立に尽力したほか、初代葛生町長もつとめました。14代兵左(晃南)は葛生町の公共事業のために多額の寄付を行い、葛生小学校に大講堂を寄贈しました。15代兵左は石灰業界発展への貢献が認められ、1985年(昭和60年)に藍綬褒章、1998年(平成10年)には勲四等瑞宝章を受章しています。この間、歴代当主はそれぞれ美術品のコレクションを続けましたが、2000年(平成12年)にはそのうち515点を葛生町に寄贈。さらに2002年(平成14年)には新たに美術館(今日の佐野市吉澤記念美術館)を建てて、これも葛生町に寄贈しました。お話を伺っていて、「篤志家」という言葉が自然と思い起こされた次第です。

 最後に吉澤様は、今日の吉澤石灰工業の事業内容を簡単に紹介され、最近はドロマイドをベースにした環境関連製品の開発販売に特に力を入れている旨を説明して、講演を結ばれました。

 講演終了後、昭和22年9月に昭和天皇が葛生に巡幸された際の模様を伝える貴重な記録映像(約9分)が上映されました。

(映像上映も大好評でした)

 

講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかを紹介します。

※文意を損なわない範囲で、一部文言を変更しております。ご了承ください。

 

 ご参加くださった皆様、アンケートにご協力くださった皆様、誠にありがとうございました。

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