• 2017/10/14
  • 第6回 佐野学市民講座

 10月14日(土)、佐野日本大学短期大学主催、佐野学市民講座「佐野の旧家を訪ねる」の第6回講座が、本学大講義室にて行われました。第6回の講師は、若林鋳造所代表(5代目)の若林秀真様。講演タイトルは「千百年の伝統 天命鋳物と鋳師若林家」です。

 今回は本学の学園祭と同時開催で、午前中には本学学生を対象に、若林鋳造所の方々が天命鋳物の作製体験会を実施してくださいました。参加した学生は、それぞれ錫(すず)を溶かして鋳型に入れ、取り出したものを加工して小皿を作製し、最後は各自の皿に和三盆のお菓子を載せて、お抹茶を頂きました。

 

 午後の市民講座には、生憎の天気にもかかわらず、約150名の参加者が集まりました。和服を着た茶道関係者の女性が前列に並んで座っていらっしゃったので、会場の雰囲気がいつもより華やいでいたように思います。

 若林様の講演は、天命鋳物の起源の話で幕を開け、続いて代表的な作品の紹介へと進みました。天命(天明)鋳物の起源については、939(天慶2)年、平将門の乱の平定に当たった藤原秀郷公が、武具等を作らせるために河内の国から鋳物師を呼び寄せたのが始まり、との伝承があります。最近の研究ではさらに古い起源があるとも指摘されていますが、いずれにしても佐野の鋳物業の発祥は河内丹南に次いで日本で2番目に古く、現在まで続く鋳物の産地としては最も古い、と言われています。

 日光東照宮奥社の宝塔(家康公の墓)をはじめ、9代家重までの歴代徳川将軍家の墓は、天命鋳物師の系譜に連なる椎名伊予一門によって造られました。日本三大巨鐘の1つに数えられ、池の間に大阪冬の陣のきっかけになった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が彫られていることで有名な方広寺の鐘も、佐野の鋳物師が製作に携わったとされます。その他、日光輪王寺の梵鐘、同じく輪王寺三仏堂の鰐口、皇居平河橋の擬宝珠、佐野近隣では宝竜寺や観音寺の阿弥陀如来像、足利鑁阿寺本堂の鰐口、そして旧田沼町の一平塚稲荷神社の銅製鳥居などが、天命鋳物やその流れを汲む鋳物師の代表的作品として紹介されました。このうち、一平塚稲荷神社の鳥居は江戸時代前期、天明鋳物全盛期の代表的作品(国重文)で、複数のパーツを積み重ねて構築してあるなど、高い技術を要するものとのこと。さらに技術水準が高い芸術的作品として、佐野郷土博物館梅所蔵の竹紋透釣灯篭(国重文)がありますが、若林様はこれを「超絶技巧」と表現していました。これを造った鋳物師が、後世の職人に対して「造れるなら造ってみろ」という挑戦状を突き付けているような気がするとも。なお、鑁阿寺本堂の鰐口は、講師若林様の実父に当たる若林彦一郎が1955(昭和30)年に造った作品とのことです。


【方広寺の鐘楼と梵鐘。右「京都と京都近郊、桜と紅葉寺院神社写真集」より。
左「wikipedia」より】

 次に若林様は、天命鋳物の作品のなかでも特に茶釜にスポットライトを当てて、そもそも佐野(天命)の地で作られた茶釜が遠く上方に伝わったのはどうしてか、千利休によって茶道が体系化され、全盛期を迎えた室町後期から安土桃山の時代に天命釜が上方でどの程度使われていたか、といった問題についてお話になりました。茶釜については伝統的に「西の芦屋釜と東の天明(天命釜)」が高く評価されているが、そもそもそうした評価が確立される以前に、また今日のような交通手段もない時代に、佐野の地で作られた茶釜が上方に伝わったのはどうしてか。誰が運んだのか。この点について若林様は、旅する総合文化人であった連歌師と、伊勢神宮の御師(おんし)がその役を担ったとする見解を紹介し、また西本願寺に伝わる慕帰絵(ぼきえ)の一部をスライドに写して、その中で連歌師の近くに描かれてある茶釜は鍔付(かんつき)の形状等からして天命釜ではないか、これはまさに連歌師によって天命釜が京都へ運ばれたことを示す図ではないか、と指摘されました。他方、室町後期から安土桃山時代にかけての「茶会記」の記載を検討すると、関白秀吉公が生涯に主催した33回の茶会のうち15回で天命釜(そのうち11回が責紐釜)が使用されている。この時代の日本の頂点に君臨していた秀吉がこれほど天命釜を使ったのはなぜか、誰が秀吉に天命釜をもたらしたのか。それは佐野氏の一族でありながら、当時秀吉の近傍に仕えていた天徳寺了伯(宝衍)ではないか、むしろ天徳寺は天命釜(とその背後にある鋳金の技術力)を媒介として秀吉に接近したのではないか・・・。

【大仏釜と鉄火鉢(東大寺)】

【三千歳之鐘(三千院)】

 講演の後半では、若林様のお仕事ぶりを紹介した5分間のビデオの上映を経て、若林様ご自身の主な作品の紹介がありました。奈良東大寺に納めた「大仏釜」は、釜の形は東大寺の鐘をイメージし、鍔付は仁王門にいる一対の獅子をモチーフにした。また、この釜と組になる「鉄火鉢」は、お水取りに際して使う火鉢をモチーフにした。京都大原三千院に奉納された「三千歳之鐘(みちとせのかね)」は、鐘の内部に861文字の薬師瑠璃光如来本願功徳経を鋳出したもので、それを実現するには技術的な工夫と大変な根気が必要だったそうです。

 さらに、若林様が従兄(若林洋一様)と2人で始めた天命鋳物伝承保存会の活動と、若林鋳造所に整理保存されている古い鋳物作製道具についての簡単な説明があり、最後にこれらの貴重な文化財を残された講師若林様の実父、故若林彦一郎様(大正9年生)の生涯――唐沢義勇少年団時代に佐野常羽の生き様(唐澤山神社創建に尽力した佐野常民の子)に傾倒したこと、近衛歩兵連隊の軍曹として玉音放送阻止の「クーデター」未遂事件に参加したときの出来事、戦後帰郷して家業を継いだ後に天命鋳物研究の先駆者である丸山瓦全との出会いがあり、その『天明鋳工作品国別』を書写したこと、それが今日天命鋳物に関する重要な基礎資料になっていること等々――ついてのお話がありました。若林様は、天命鋳物の起源から自分の父親の人生まで、すべて唐澤山の御祭神(藤原秀郷公)のお導きに帰するように感じると述べて、講演を結ばれました。

【講演中の若林秀真様】

 

講座後のアンケートに寄せられたコメントの幾つかを紹介します。

 お越しくださった皆様、アンケートにご回答くださった皆様、誠にありがとうございました。

前のページに戻る